昭和52年4月17日 朝の御理解 末永信太郎
第68節 神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり、節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。
辛抱という、この辛抱こそ身に徳を受ける修行と仰るその辛抱というのは、もう辛抱が出来んと、例えば普通思う、その先が辛抱です。ここまでなら誰でも出けるというところなら辛抱じゃありません。ね。もう堪忍はならんと思います。けれども、そのならんという堪忍をする事が、本当の堪忍だと言われるようなものです。だから、おかげを受ける人、普通の人、落して行く人というものがハッキリしてくるです、その辺で。ね。
このね、それこそ雨が降るから、風が吹くから偉いと思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行という、その辛抱の徳を受けておきませんとね。例えば、なら、これは商売に致しますと、私は段々おかげを頂いて、商売の繁盛のおかげを頂く。その店なら、その店に一つの力、徳というものが出けて来るんです。例えば、客筋が良い。やはり、その芯が良いからお客さんも良いのです。よく農繁期だから、農閑期だから、例えば田舎の、まあ、田主丸辺りのような町はそうです。農繁期になると、お客さんが減ってしまう。
農閑期になると、大売出しをしたりして、まあ、それを取り戻そうと、こうする訳なんです。ね。けれどもね、力というもの、徳というものはそんなもんじゃない。それこそ、農繁期であろうが、農閑期であろうが、ね、一応のおかげが頂かれるというのが、私は徳だと思う、力だと思う。とにかく、只今もう農繁期ですからお客サンが少ない、とこういうようなお届けをする人があるから、私は必ず言うんです。
アンタが決めとるとじゃないかと。農繁期じゃから、もうお客サンが少ないと決めてしまってる。ね。神様のおかげを頂けば、んなら、お百姓さんだけが相手じゃないだろう。ね。その反対の、なら人達がお客サンになってもらえりゃいいじゃないか。合楽の場合を見てみなさい。ね。千なら千のお参りがあるようになったら、ずっと千のお参りがあるじゃないか。そこから〔 〕だとか、農繁期とか、農閑期。なるほど、農繁期の時には、濃化の方はお参りが出けんにしても、なら、町の人達が、あの暇だという人達が参って来る。ね。
そういう、私は全ての上におかげを頂く為にです、いわゆる、この辛抱の徳というものをつけて、身につけておかなければいけないと思うです。ね。昨日は、春の御大祭を、まあ、あんなに麗しゅう奉仕させて頂きました。西鉄が〔スト?〕だから、お参りが少なかろうと。少ない段じゃない、かえって多かった。ね。〔大中場?〕にゃんらん限りは、少しずつは信心が伸びて行きよるのだから、伸びただけは多うなからにゃならん。だから、合楽の御信者さんは、ね、今日はもう西鉄が休んどるから、もう今日は、お祭りは御無礼しようっちゅうごたる信者は段々少なくなって来たということ。
ね、雨が降るから、お天気が良いから。西鉄があるからないからで、例えば左右されるような事では、私は本当の力じゃないと思う。それでも、やっぱり、なら、言うなら平常通りのおかげを頂いて行けれるというようなおかげを頂く為にもね、雨が降るから、風が吹くから偉いと思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受けると仰る。なら、その辛抱というのは、どういう事かと言うと、もう辛抱が出けんというところで、ね。もう、それこそ辛抱が出けんという事になって。とても辛抱が出けんところを辛抱するんだ。ね。
小倉の先生は大変お徳を受けられた方だけに、大変厳しかった。もう、信者にでも、もう特に家庭奥様なんかにゃ大変な、もうそれこそ理不尽な、まあ言うなら、事を仰っておられたらしいですね。とうとう、もう辛抱がしきらずに、奥様が、だいたいあちらから見えとる。ね。岡山県の〔さみ?〕という所から見えておるんです。それで、その辛抱が、それこそしきらずに帰られた。四神様のお口添えで小倉へお出でられとったんですから、四神様にその旨を継げて、お取次ぎを頂かれて。
実はこうこうでございますから、もう他の事ならどんな辛抱でもいたしますけれども、もうこの事だけは辛抱が出けませんと仰った。ね。その辛抱が出けんところを辛抱するのが、辛抱だぞと四神様が仰った。ね。桂が出て行けと言うて、表から出したら裏から入れ、裏から追い出されたら表から入って、ね、桂という人間は、ね、普通の人間とは違う。それこそ、九州の素を取ろうかというくらいな、言うならば大人物だから、普通とは違うと。さっ、きつかろうけれども、また帰れと仰ったというお話があります。
ね、もう他の事ならどげな辛抱でもするけれども、この事だけは辛抱が出けんと言う。ね。それは苦しかろう。ね。もう、苦しいの段じゃありません、もうこの事だけは辛抱出けん。ね。その辛抱が出けんところを辛抱するのが信心じゃ。さっ、帰れと仰ったと言うのです。ね、だからこそ、ああいう大徳の先生がお出来られ、また、ご自身もああいう大徳を受けられて、長生きのおかげを受けられたんです。雨が降るから、風が吹くから、その決して天候の事だけじゃない。人生の中に、色々な事、ところがありますけれども、そこを私は辛抱し抜いてこそ、私は本当の辛抱の、辛抱の徳ですから。普通の辛抱じゃ頂けるはずありませんよ。
けれども、信心するなら、信心しない、なかなら別ですけれども、信心があるならば、そこを神にすがって辛抱するのだから。ね。すがるもんがある。神にすがって、辛抱させて頂くところに、辛抱の徳がある。辛抱の徳というのは、今申しますように、農繁期だからとか、農閑期だからとかという事いろんな。それは、もう本当に西鉄が休みじゃったけんで、もうお参りがゴロリ減ったと。国鉄が休みとか何とか言うから。ね。お参りが少なかったという事はないという事。ね。
それには、なら例えば私の信心がです、ね。もうだいたいは、私も辛抱力のある男ではないですけれども、いつの場合でも神様にすがっての辛抱であったから、人が辛抱が出けんところが辛抱が出けた。私は、あの、大きな人物とか、大きな心とか、大きな受け物というのはどういう事かと言うと、私は辛抱力から生まれると、今日私は思いますね。どんな事であっても、どうも言わんで済む、辛抱〔しとらん?〕。そうしとる内に、心が大きゅうなる。いわゆる、辛抱力が出けるんです。いわゆる、辛抱の徳が出来るんです。
だから、あっちはもう、どれだけ大きいか、もう底が分からんというように大きい人は、そういう、やはり始めから大きいのじゃない。辛抱に辛抱を重ねて。ね、その辛抱力が段々、心も豊かに大きくして行くんだと私は思うです。最後のところにね、大きな声をしたり。ね、節をつけたりせんでも、人にものを言う通りに拝めて。ね。信心辛抱というところは、大変難しいその表現で、ここには、雨が降るから、風が吹くから偉いと思うてはならんという風に、もう大変難しゅう、難しいところを信心によって、信心、神様にすがって信心せいと言っておられるところが、最後のところには、もう平易に教えておられます。
昨夜の御祈念に勿体島の小西さんがお礼に出て見えました。もう親先生、今日はもう本当に感激いたしましたて言う、今日の御大祭を頂いて。もう、本当に、もう感動いっぱいで帰らせて頂いて。ね。今晩は、またそのお礼参りをせずにはおられなかったと言うて、夕べ参ってみえました。せっかく御大祭頂くなら、そのくらい、そこの、せっかくあれだけの感動、感激の言うならお祭りをお互い頂くのですから。ね。
私は昨日、御祈念ちょっと前に出て来た。〔 〕、あの御祈念〔 〕、末永先生が正奉仕ですから、池田先生の先唱で御祈念を。誰ん御祈念に出て来とらんもん。誰んちゅうか、何人か出て来とる。女子の先生どんが、上野先生と池田先生。男の先生では、正教先生が一人出て来ておった。して、家族の者が何人か出て来ておった。まあだ、お広前にいっぱいおるんですよ。はっは。さあ、夜の御祈念だ、もうそれこそ、私がもうどんなに大祭で、もうそれこそ、〔こうをひっくり返るようなにがいを?〕いたしましても、夜の御祈念の時には、もう平常と同じでなからなならんというのが、私の生き方です。
だから、もう大祭の雰囲気というようなものは、もう全然、私は残しません。はあ、もう道がそこにひっちらけてある。お米がローカにまだいっぱいずらーッと並んどる、そういう事が好かんです。もうきちっ、もう夜の御祈念にはお参りをする、もう平常と一つも変わらない。まあ、中には御大祭の雰囲気をいつまっでんこの、残しとくとがヨカっちゅうような人もありますよ。けれども、信心というものは、そんなもんじゃない。ね。
どういう、例えば、なら手に合わんような事があっておっても、なら、夜の御祈念には、夜の御祈念に平生。あら、今日は何かあったっじゃろうかというくらいなね、雰囲気がなからなければ、私は本当じゃないと、私は思うから、私ここはそういう流儀なんです。いわゆる最後のところにですね、決して大きな声をしたり、ね、節をつけたりせんでも、人に物を言うとおりに拝めという事は、平易という事だと思うんです。平常という事だと思うんです。たくさん修行生がおりますけれども、ね、何を修行しておるのかと。
はっはっは、信心修行しとるとでしょうもんね。それが、夜の御祈念に出て来れなかったなんて、どんなに考えてもおかしいです。ね。私は昨日、その小西さんの、小西さんは御主人の方は必ず夜の御祈念に参って来るんです。ですから、ね、昼、ならお参りしとるけん今日は御無礼しようちゅう事はない。ね、それも、なら昼の御大祭の言うならば感動が、感激がです、また、夜の御祈念にお参りさせて頂いて。本当におかげを頂いた。
もう、本当に大祭を境におかげを頂く人、大祭を境におかげを落とす人。これは教会でもそうです、記念祭なら記念祭を境にダーッと伸びる教会と、もう記念祭を境に節が折れたっじゃろうかというごと、ひっそりと〔死し閉まる?〕教会があるです。あんまり力みすぎとるからですよ。ね。やれやれが出るからです。私はどうでも信心、信心って、それが信心なのだからという事だと思うて頂きたいですね。どういう場合であってもです、ね、私どもは神にすがってというおかげが頂かれるのです。ね。
もう、今日は堪えちもらおうといったような事があって良かろうはずがない。ね。他の事と違う。ね、信心、それが信心なのですから。ね。神にすがって辛抱させてもらう。そこに辛抱の徳が受けられ、辛抱の力が受けられる。その力は、ならどういう事になるかと言うと、農繁期であろうが、農閑期であろうが。ね。やはり、売上はいつも同じ。百の力を受けとれば、百がいつもおかげが頂かれる。千のおかげを頂けば、いつも千のおかげが頂けておる。いわゆる、平常通りのおかげが受けられる。
だからこそ、そういう厳しい、なら修行をさせて頂いた、その最後のところはです、節をつけたり、大声をしたりせんでもという事は、平易、平常だという事。ね。合楽の場合、どういう、例えば大きなここで、なら行事があってもです。ね。お広前全員がひっくり返るような、てんやわんやの事があってもです。ちゃんと夜の御祈念は、あらっ、今日は何かあったっじゃろうかというごたる平生な、私は夜の御祈念が出けられる、出ける。ね。
昨日はああいう御大祭があったが、ね、だから、なら明日もう、18日の月次祭ですけれども、御大祭はもう、昔、前~何日も前にあったような感じがする、いつでの場合でも。もう、やはり18日のお祭りは18日のお月次祭で、平常通りのお月次祭が出来る。ね。もう、昨日は一家中でお参りしとるけんで、今日はお参りせんでよかろうといったような信者が段々、無くなって来たという事。ね。平常通りのおかげが受けられるという事。ね。
それを私は力だと思うです。平常通りという事はすばらしい事です。ね。神様にはそういう平生な心。ね。出くる時は出来る、出けん時は出けん。一遍でストーッとおかげを落してしまう。ね。そういう事では信心になりません。ね。そこんところを、はじめ〔 〕。ね。本当にお前が言うように、ね、桂松平という男は難しい男じゃ。ね。きつかろう、きつかろうけれども、ね、神様へすがって辛抱して行けと。それが信心辛抱じゃと、四神様が仰せられたという。
ね、徳を受けるというのは、もう辛抱が出けんという、その向こうに、ね、神にすがって辛抱させて頂くところだけが力になるのだ、徳に。言うならば、一番大事なところを皆が疎かにする傾向が強いです。ね。そこからが力になるとです。人並みじゃ人並みです。ね。やはり、人並み優れたおかげを頂く為にはです。ね、やはり人並み優れた信心が出けなければなりません。信心をさせて頂く者は、人が人偏なら、私は行人偏という、いつもこの修行の行というものがなからにゃいけんです。
ね、信心のない者が人偏の時にゃ、信心のある者は行人偏。同じ信心をさせて頂いておっても、力を受ける、徳を受けるという者は、普通の信心の人は人偏で行くかも知れんけれども、私はいつもそれに、もう一つちょっと加えて、行人偏で行くという、ね。その、ちょっと一つ加えるところが力になるのだ、徳になるのだ。信心辛抱の徳とはそういう事だと私は思うですね。どうぞ。